西村陽平の創作:Creation by Yohei Nishimura
西村陽平の創作
西村陽平は1947年、京都に生まれました。東京教育大学で彫塑を専攻しましたが、当時の公募展などの彫塑作品に興味が持てないなか、同じ大学の陶芸コースで教鞭をとっていた里中英人の創作に興味を持ちました。里中は走泥社に参加した事もある前衛陶芸家であり、一貫して社会への提言を秘めたコンセプチュアルな陶芸作品を発表していました。加えて西村の学生時代は正に、日本においてミニマル・コンセプチュアルアートが広まった時期と重なっています。それらの諸条件が、作家西村陽平の原点なのです。
西村は1975年の第3回日本陶芸展入選作「伝道の書Ⅱ — 白熱の中の崩壊 — 」で注目されました。3点組のその作品は、王冠・缶・ヤカン・スプーン等の日常品を粘土版において焼成したものです。タイトルが示すように、高温により崩壊した日常品は残骸ではありますが、良く見るとたこ焼きのように膨らんだ王冠など、元が何であったのか想像出来ないくらいに変形しているものもあります。焼けこげたそれらの表面は、火の力の凄まじさと共に思いも着かない造形性をも示しているのです。それは滅びの中の美ともいえるものかもしれません。西村は自己の作品に関し下記の様に語っています。
「( 1976年5月 日本美術 第129号 )私の作品にとって、陶芸といわれているジャンルにかかわりがあるならば、物質の変容という点である。このことは陶芸という分野において独自の意味を持つ要素も含んでいるものとしてある。( 中略 ) そしてその変容とは、地上に永遠 ( 無時間的という意味で ) の生命を持つという形態に向かうのではなく、「皆塵より出皆塵にかえる」ように物質が崩壊へと過程を示すことである。私にとって「つくる」という行為はそのことによって生き、さらに生かされるということであり、過去・現在・未来へと流れる時間の中で崩壊するものの中に永遠を見ようとする行為である。」
西村は制作の初めよりはっきりと陶芸との関わりを物質の変容においており、それは土を用いて造形物を作り、焼成により固定化・永続化しようとする陶芸家とは異なる発想ではないでしょうか。西村の個性は、初めに彫塑を専攻し、ミニマル・コンセプチュアルアート等の現代美術の洗礼を受け、それを身につけていたからこそ見つけ得たものだと思います。デビュー作以降現在まで、西村は焼成そのものの意味を自身の思想になぞらえながら提示することで、「陶芸」と「現代美術」の双方に強烈な問題提起を行っているのです。焼成の作品のみならず、打ち捨てられた日々の物をシンプルな手法のみを用いて作品化して行く行為は変容と言う意味において共通しており、一貫して現代美術の創造性に貢献していると言えます。しかしながら現在の日本のおいて、主に焼成という手法を用いながらも、既成の枠組みに収まらない独特のスタンスをとる西村は、「現代陶芸家」や「クレイワーク作家」という評価に甘んじています。しかし彼の創作活動はその様なカテゴリーだけで語られるものではなく、広く現代美術という視点でこそ語られるものだと思っています。
西村の作品の中で最も良く知られた物として、19990年代に本格的に始まる「本」の作品が上げらます。それは窯の中にたまたま文庫本を入れていたという偶然から始まりました。窯の隅で見つけたミルフィーユ状の白い塊、それは焼けて灰になるはずの文庫本がセラミックに変容した、白く優雅で儚げな本の姿でした。ただ窯の中に入れただけの本が、焼成によりセラミックへと変容する作品は、西村の創作のプロセスと思考を最もシンプルに明示する作品となりました。
本や新聞などをテーマにした作品は、八木一夫や荒木高子作品などさほど珍しくはありせん。それらの作品は、思想やニュースなどの文字情報に焦点を合わせた物と言えます。しかし西村陽平の「本」のシリーズは、文字情報ではなく本自体の存在・物質性に主眼を置いた物となっています。まず誰もが驚くのは、そのまま窯に入れれば焼けてなくなるはずの紙が、常識に反して強度を持ったセラミックへと変わっていることでしょう。その事実がまず観る者の認識を揺さぶります。そのことは同時に、紙で出来た本という物質に観る者の意識が注がれているともいえるのです。文字情報を失ったが故に私達は素直に、変容した新たな本のディテールを楽しみ、想像を巡らすことが出来るのかもしれません。
ここ数年、西村は古書を使った作品を発表し続けています。その作品は大まかに2つのシリーズがあるように見受けられます。一つは、かつて誰かが所有していた古書に書き込まれた線のみを残して、文字情報部分を白く塗りつぶしたものです。そしてもう一つは、古書の表表紙や裏表紙に蝋をしみ込ませた後、箱状に整えられた物です。書き込み以外を白く塗りつぶした作品では、その線がかつての所有者の思考の跡だとわかりますが、必要な情報が欠けているため私達には幾何学的な、何かのドローイングのように見えてきます。古書を使ったもう一つのシリーズでは、表表紙を使った物は青や緑の単色の抽象画の様にも見えますし、裏表紙の作品はモノクロームの抽象画の様に見えるのです。蝋により封印されたその向こう側には、汚れや書き込みや傷など、古書と人びとの営みが見受けられます。ここでもまた、崩壊・死と変容・再生という西村の思想は貫かれているのです。本の作品に限らず、西村は日常の物、それも捨てられたり不要になった物を使って作品を制作しています。その手法は制作と言うより整えると言った方が良いかもしれません。人びとの手を経てその目的を終えた物に、シンプルな一手間を加え作品として再生させる西村のス作のスタンスは、当時の現代美術の潮流とも重なりながら、多様な関わりを見せてくれます。
現代美術では、奈良美智・グレイソン・ペリー ( Grayson Perry イギリス ) ・スターリング・ルビー ( Sterling Ruby アメリカ ) ・エリカ・ヴェルズッティ ( Erika Verzutti ブラジル ) 、セント・クレアー・セミン ( Saint Clair Cemin ブラジル ) 等陶作品を発表する作家も少なくありません。彼らの作品を観るには、陶芸と言う視点からでは理解しがたいものがあるでしょう。西村の作品には、それらを繋ぐ答えが隠されていると思うのです。そしてそれらが認知された時、陶芸は陶芸というカテゴリーではなくFINE ARTとして新たな歴史を刻んで行くのではないかと思っています。しかしそれは新しい視点ではなく、西洋化(クラフトに分類)される以前、中国を中心として朝鮮半島と日本において花開いた陶器類の本来の意味と美であった様な気がします。
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